書くことの効用について

ボールペンの写真

自動化して文章を組み立てることが可能になった現代において、手作業で文章を綴ることの意義を改めて確認しようと思う。

『自らの主張や思考を書くこと』の効用として、以下が挙げられます。

  • 価値判断の主体である「自身」が重きを置く、モノ・コトを確認することができる。
  • 主張に至る根拠や紆余曲折までも記録することで、「似た境遇の誰かの悩み」に対して、自分だけの差別点やストーリーを踏まえた回答が手に入る。
目次

もはや文章を綴ることに価値はなくなったのか?

Chat GPTによる、文章構築や質問回答の便利さが賞賛される中、アナログに(ここでは自分で1から構成を考えて主張することとする)書くことの価値はなくなったのでしょうか?
いやそんなことはないはず。
10年も日記を書いている私自身にとっては、これまで綴ってきたものの価値をなんとか見出したいのが本音だけど。

一方で、昨今のスクリプト化や定量情報の抽出のみによって文章化されている、製品比較レビューやお悩み相談室の解答にうんざりしているのも事実です。先に述べた文章構築補助や質問回答についても、悩みに対してポンと答えは出て来るものも、どこか血が通っていないような、答え以外の周辺情報がこぼれ落ちているような感覚になる自分がいます。

そこで、この何とも曖昧な感覚へ抗うため、アナログな文章作成・主張の意義を見出すことにしました。
AIの発展に対する、アナログの意義に関する論争は至る所で目にするだろうから、今回特に自身の経験に当てはめて基づいて筆を進めることにします。
課題設定の大まかなポイントはこうです。

①アナログ(非AI)だからこそ、筆者と読者にもたらされる価値は何か。
②個人的な執筆経験を活用できる状況として、どんな場面が想定されるか。

当然ながらライティングの目的や分野によっても主張は異なるでしょうから、ここではSNSやブログで、自らの主張や思想を綴ることの意義にフォーカスして考えてみます。
読者の皆さんが、「今日から日記を書いてみようかな」「自分と向き合い悩みや考えを書き出したり、主張を発信してみようかな」と思っていただけたら嬉しい限りです。

読者が期待するのは、一般化された「正解」以外の要素ではないか

“アナログ(非AI)だからこそ、筆者と読者にもたらされる価値は何か。“
それは、『自身が重きを置くモノ・コトを確認することができる』ことではないでしょうか。

生成AIの出現により、主張の根拠となる情報や事実例、もっともらしい文言や言い回しは簡単に作成することが可能になっています。わずかな訂正箇所だけで、自分の意図に沿った主張を簡単に生成できてなんと便利なんだろう。
しかし、読者が期待している「主張の価値」は果たして「正解」だけなのでしょうか。

読者が期待する価値とは、筆者個人が抱えるその時の心情や迷いなど、「正解」にたどり着くまでの紆余曲折にこそ存在するのでないかと、私はそう考えています。
なぜなら、読者が直面する悩みに対して、先回りして答えを提示するだけでは味気ないからです。

アナログな主張の場合、単発的な回答に加えて「同時並行で生じる悩み」や「筆者はこのような判断をしたが、別の観点としてあれも考えるべきではなかろうか」などという補足や寄り道さえも伝えることができます。

「スペックと価格が似ている二つのカメラだが、動画撮影の形式・対応する保存方法を重視してこちらを選んだ。」

「所有するレンズが⚫︎⚫︎であるため、ボディの手ぶれ補正機構は優先しなかった・・。」

「しかし購入後の子育てシーンでは非防塵防滴仕様を惜しむときがあり・・・。荷物が増えて小型の方が・・・。」

筆者と読者が意思決定に至るプロセスを伴走することで、複数の検討材料の中から何を優先するか議論が繰り広げられます。もちろんその過程では、優先事項の同意・反論が出てくるでしょう。
筆者が検討した基準に沿って選んだり、あるいは読者ならでは環境を鑑みて優先度を変えてみたりという具合です。
この過程によって、筆者と読者がそれぞれ重視する物差しの基準や優先度を明確にすることが可能となります。

誰しも、紆余曲折の中での評価軸の種類や優先順位は異なります。
しかし個人にとっての正解が千差万別だからこそ、非アナログ下での簡素化された評価軸での善悪の判断や、推奨/非推奨の提示では、真に満足いく参考情報たりえないことにも繋がります。

一説によると、ヒトは似た境遇の人物の選択や、心情にこそ共感を得やすいようです。
もしそうならば、悩みを抱えるポイントや、判断で重視しないポイントも同様ではないでしょうか。
したがって読者が参考としたいのは、一般化された悩みとそれに対する「正解」だけではなく、類似した境遇・思考を辿った筆者ならではの、物差しの基準優先度に基づく主張なはずなのです。

複数のノートの写真

10年ものの日記帳。2024年現在では4冊目になりました。

また上記が事実ならば、筆者自身の責務も明確です。
バックボーンはもちろん、具体性のある筆者像のほか、試行錯誤のエピソードの開示が必要となるでしょう。
曖昧な項目があっても良いでしょうが、匿名過ぎてもどこの誰だかわからない意見は、きっとすぐに流し読みされてしまいそうです。

開示があれば、読者は筆者との類似性を確認することができますし、
仮に納得できない主張を目の当たりにした場合でも、置かれている状況の差異を確認して議論を煮詰めることに繋がるでしょう。

加えて筆者にとっても、試行錯誤エピソードを明らかにすることで以下の利点があると考えます。
・自身の悩みの整理と、結論を出すに至る価値判断軸と優先度を明確にできる。
・まさに今調べたばかりの比較情報、詳細情報が添えられることで主張の根拠が増す。
・主張肉付けのための不足情報を調べることで、筆者本人にとっての学びとなる。

個人の嗜好や観点に特化して肉付けされた情報と、それらに基づく主張が完成すれば、著者本人オリジナルで代替可能性の低い、上質なアウトプットが完成しますね。

書くことの継続で得られる副産物

“個人的な執筆経験を活用できる状況として、どんな場面が想定されるか。“

ここでは、私の10年間の日記によって得た個人的なベネフィットについて事例を共有します。
それは『似た境遇の誰かの悩み に対して、自分だけの差別点やストーリーを踏まえた回答が手に入る』ことです。

日記の利点は主に以下の3つと捉えています。
・記載した日付が明確であること。
・自身の年齢/社会的立場も合わせて確認できること。
【重要】内省の記録であり、対外的に脚色されたものでないこと。

このほとんどが今やSNSで代替可能にも思えますが、本当にそうか立ち止まって考えてみます。
SNS等の外部の目に触れる場所に記載する時には、表現する感情は多少なりとも脚色され、真の恥じらいや悩みの表現には心理的抵抗が生じてしまうものです。
過度に脚色した記録の場合では、見返した際に当時の心情を見当違いに捉えてしまいます。

でも日記ならば、自分が正直に綴る心情や活動の記録であり、脚色がありません。
見返す際には、当時の素直な悩みを懐かしむも良し、自身の生き様や葛藤を現在の糧にするも良しです。
そして現在において、当時の自分と同じ悩みをかける誰かに対して、自らの境遇や立場ならではの乗り越え方や寄り添い方をもたらすことができます。

私も1番古い日記帳を見返すと、些細な悩みに嘆いて答えを求めていたり、目標を前に鼓舞している様子も伺えます。そこではどんな声に救われ、何をして乗り越えてきたのか、その軌跡を確認できます。

「現在就職活動で悩む彼に」「中高の進学を悩む彼に」「キャリアかプライベートで悩む20代の彼に」対して、似た境遇/似た悩みを持ったあなただからこそ、もたらせるエピソードは何でしょうか。
ぜひあなただけのエピソードによって肉付けされた体験談によって、後世を営む彼らに一つのアイデアを差し伸べて欲しいです。

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けれども、毎日の日記が不安や悩みだけではつまらないですからね。
日常の嬉しかったことや、誰かに感謝したいことなども混ぜると良いみたいです。
この辺りは、TED|Shawn Achor「The happy secret to better work」を参考に、また別の記事で触れることにします。
日記歴10年の私が愛用するツール類も、いずれゆっくり紹介したいな。

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